面白すぎる。

まいど。久しぶりに更新のボンクラ日記でございます。最近は模型作りが楽しくてシンナーの国に行きっぱなしだったんスけど、たまには巡回してみようかと思い立ち・・・ぐるっと見回ってみました。


その1:復活のartane
元気そうですね。JSFさんを嫌いで憎くて仕方ない感がチラホラ見えるあたり、またハジけてくれそうでwktk

その2:自縄自縛の穂積
つい最近オレの住む札幌で(区は違うが)起こった、高校生の爆弾事件について語ってます。が、どうにもピンボケなコトを言ってコメ欄で突っ込まれてます。それがまた香ばしくて面白い。コチラ

本文中で『心を開放させたと勘違いしている現代社会の娯楽。』と言ってますが、その娯楽である「お笑い」でメシを食おうとしているのは彼本人だったりするんだけど、そこはイイのか。そして、お決まりのフレーズである「愛」や「どんだけ自己中なんだよ」との突っ込みに対して支離滅裂な長文を返しております。以下に転載。原文ママだけど、改行が散文詩のように多すぎるため適宜修正。


自己中ってなに? 説明できます? 僕がはたして自己中であるか? よくよく吟味してくれ。
自己中であるとしたらなぜ自己中か これまた吟味してくれ。
自己中と 自分で人生を切り開こうとする人間の違いを説明できる? そう そんなことは誰にも説明できない。なぜなら 説明する必要がないから 問題なのは流行の「ジコチュー」という言葉に閉じ込めて そのものにレッテルを貼ってしまうことが一番怖い。

自身の例からあげるとすれば
ユニセフに毎月定額募金している 今は金がないので1000円だけ」
「バイト先で盛り上げるためにイベントでは自腹でものをかい祝う(たとえば節分)」
「バイト先で意見を直接上司に訴え職場の改善を要求する」
「他人の眼が、心が、気になりすぎて自己乖離に陥る過去を持つ」
「新聞で自殺者や若者の殺人の記事を切り抜き社会の歪みに憤る」
「自分が男であることと、男の暴力的な構造でできた社会と風潮を憎み、その憎しみに苦しむ」
「話すのが特異じゃないので人と会ったときになにを話すかリストアップしてうまくしゃべろうと工夫していた」

以上は全部こっちを弁護する側であり 弁護しない事例も無数にあります。
(なんの弁護にもなってないよ、という見方もある)

少なくても 世界が100人の村だったら、の話をちょくちょく思い出してるよ。
(自己中ってなんだろう)


僕は自分が自己中だなんて思っていません。少なくても今の論壇などであげられている自己中とはなんら関係がないと思っている。僕は他人が自己中とかなんだとか言わない。自分のなかでよくよく工夫あるべし。と自分を戒めているだけだ。

では、理論的に説明しよう。まず 他者を救いたい、ということは自己が他者の領域にまで肥大化しているのが望ましい。
(それをある意味で自己中ともいう。ある種暴力的に他者を救おうという場合)
逆に 自分を滅して他者のことを完全に考えている救いがあるとしたら、それは人情とは言えない。人情とはすべからく卑しいものだと思っている。ここでひとつ 僕が「世界を救う」という意味を考えて欲しい。そこで大事なのは誰もが実践できる、というシステムを構築することだ。だからこそここで卑しいという卑下した言葉を使い誰でも届く簡単な理屈であることをしるした。
つまり自己中心的に自己を肥大化させて世界を(というとでかいので日本としよう)
日本をよくしたいと思ったときに、日本に生まれ育ちこれから生きていくために過去も未来も包摂した肥大化した自己に自負を持たせそれを大きな意義と生きる意味として大きな命を生きること。それは強さとなり人を救いうるやさしさになる。

「やさしくなるためには強くならなくてはいけない」とは現実的なものだろう。

愛については、愛とは何か、という前になぜ僕が愛を口にするかを考えればわかる
愛とは なにかわからない。ただ個人個人が「愛とは何か」と立ち戻り考えるとき、そのたびに人は愛に近づくだろう。
もしくは 離れてしまいかけていた愛に「愛」という言葉がもつ真の力が助力となるだろう。
心の中でいい「僕は人間を愛している。せめて愛したいと願う。」と考えれば 個々が個々に答えを見つけるだろうということだ。

こうして書いてみてまとまったこともある。
指摘ありがとう。

キッチリ説明できたとは思えない。
俺は るろうに剣心のように本当の厳しさとして
「答えを教えてくれないんだから。志々雄さんより厳しいや」(宗次朗)
のように 自らの道を歩んで欲しいと思う。

誰か翻訳してくれ。3回読んで日本語に自信がなくなってきた。この現象を文法のゲシュタルト崩壊、と名付けよう。半ば朦朧となりつつも4回読んで、文意を汲み取る努力をしてみた。さすがに5回は辛い。読んでるだけで平衡感覚がアヤシイ感じになる。オレはこんな風に汲み取ってみた。

僕は口下手で、それがコンプレックスになっていた。でも今は慈善団体に寄付したり職場のイベントを盛り上げようとしてるイイ奴なんだ。だから自己中と言われるのは心外だ。そして「愛」ってのは何か解らんけど、皆がそれぞれ考えれば良いと思う。


あら。なんかスッキリしちゃったわね。これでいいのかしら。
何度も言われてるコトだけど、穂積は自己中って言うより自己愛の人だ。芸人志望なら当然の気質かも知れないけど、どうにも言葉を選ぶセンスが欠けている。だから「あぁんオレいま立派な事言ってるゥ・・・!」と云う自己陶酔感だけしか相手に伝わらない。その際たるものが、秋葉原でのデモ行進だろう。集団オナニーと云う揶揄が正鵠を射てしまうのも自明だ。

この後、コメ欄は穂積が弟子と呼んでいた人物からの容赦ない批判に晒される。文脈を見るに、弟子も何かしらコンプレックスを抱えていて、よりによって相談してしまったのだろう。そして、彼の性格から・・・見当違いなアドバイスなんかしちゃったけど何の役にも立たなくて捨てられたと想像する。その人物に対して、コンビニの便所紙の如く薄くて粗い言い訳長文を返す穂積が味わい深い。これほど空虚な日本語を、オレは見たことが無いよ・・・